日蓮大上聖像

   御  生  誕

 日蓮大聖人がお生まれになったのは鎌倉時代(1185-1333)の、貞応元年(1222)2月16日である。時代背景は天皇・公家中心(律令制)の時代から武士中心の時代へ移り、政治も文化も不安定な時代であった。それに加え、地震、干魃など天変地異が起こって、飢饉、疫病、戦乱が絶えない悲惨な事件が続き、末法の初めの現象と捉えられていた。

 日蓮大聖人は、房総半島の南東部、安房小湊の漁師の息子としてお生まれになった。

浄土宗開祖 法然上人(1133-1212) 武士出身 美作(岡山県)生まれ
浄土真宗開祖 親鸞聖人(1173-1262) 貴族出身
臨済宗開祖(禅) 栄西禅師(1141-1215) 神官出身 備中(岡山県)生まれ
曹洞宗開祖(禅) 道元禅師(1200-1253) 貴族出身 京都の人
日蓮宗開祖 日蓮聖人(1222-1282) 漁師出身 安房小湊(千葉県)

 日蓮大聖人は鎌倉信仰仏教の開祖の中でも、最後の方に生まれ、しかも東国の漁師の子として生を受けたのである。

    御出家・行学

 日蓮大聖人は12歳の時に、天台宗の古刹である清澄寺(のちに真言宗で現在日蓮宗)に登り勉学をする。そして16歳の時に出家をされる。
 9歳のとき父が夜討に遭ったものの、その遺誡により仇討を断念し仏門に入った法然上人。母が幼時に没した親鸞聖人。3歳で父を8歳で母を失った道元禅師。しかし、日蓮大聖人にはそのようなことはなかった。

 若き日の日蓮大聖人のは、次のような疑問を抱いていた。

たくさんの宗派があるけどどれが本当の宗派なのだろう?
お釈迦様の教えは一つのはずではないか?

仏教が栄えているのにどうして世の中は乱れて天変地異が起こるのだろう?

 そのような疑問を持った日蓮大聖人は行学に励むが、清澄寺での勉学ではもはや日蓮大聖人を満足させることはできなかった。鎌倉に登り、さらには天台宗の根本道場たる比叡山延暦寺で行学を修める。比叡山だけではなく、園城寺、高野山、四天王寺などを巡り研鑽された。
 32歳までの遊学の成果は法華最勝の確信とお題目の弘通を誓ったことである。

立教開宗

比叡山、高野山などで、修業を積んだ後、法華経にこそ仏教の神髄にあるという信念を持ち、建長五年(1253)、政治不安や天災に苦しむ社会を救おうと、鎌倉にやってこられた。

当時の鎌倉は、禅宗や念仏宗の信者が多かった。日蓮は、鎌倉の町の辻に立ち、説法でこれを激しく攻撃された。

中でも、其の著「立正安国論」では、邪教に惑わされている世間と、邪教を許している幕府を強く批判された。

日蓮大聖人は「立正安国論」を、幕府の実力者、北条時頼に提出された。時頼は黙殺したが、仏教者達が怒って日蓮の草庵を焼き討ちした。

日蓮は伊豆へ流されたが、やがて許され鎌倉に帰ったが、当時鎌倉は元による侵略の危機が高まっており、
「立正安国論」の予言が的中した様に
なった。

文永八年(1271)、再度
「立正安国論」を幕府に差し出したことから、執権北条時宗によって処刑されかかるが、処刑の難を逃れ、佐渡へ流された。三年後、許されて身延山に入られた。

元軍の攻撃
は、その三年後であった。どんな弾圧にも屈せず、権力者に迎合することなく、最後まで民衆の側に身を置いた日蓮大聖人は日本の宗教史上、稀な人物であられた。